Physical Intelligenceは2025年11月、6億ドルを調達し評価額を56億ドルに乗せた(*1)。その4か月後には、評価額をほぼ倍にする形での追加調達交渉が報じられている(*2)。同じ会社が同じ時期にやっていたのは、自社のロボット基盤モデルの重みと学習コードを、世界の誰でも無償でダウンロードできる形にしてGitHub上に置くことだった(*5)。数十億ドルの値がつく会社が、その頭脳を無料で配っている。ならば、いったい何に値段がついているのか。米国特許商標庁の公開データベースをどれだけ遡っても、Physical Intelligenceを出願人とする主要な特許は見当たらない。この産業でいま最も評価額が高い会社の一つに、独占すべき発明の記録がない。
これは例外ではない。むしろ2026年のPhysical AIという産業の標準的な姿である。
特許が国境をつくっていた時代
1954年、ジョージ・デボルは「プログラム物品移送」という装置の特許を出願し、1961年に成立した(米国特許2,988,237号)(*3)。デボルとジョセフ・エンゲルバーガーは1962年、この一枚の特許を資産の核としてユニメーションという世界初のロボット企業を興した。ユニメーションは自社で世界中に工場を持ったわけではない。技術ライセンスで稼いだ。1968年、川崎重工業はユニメーションから技術ライセンスを受けて国産初の産業用ロボットを世に出し、日本のロボット産業はここから始まった(*4)。特許のライセンス契約が、ロボット技術が国境を越える唯一の通路だった時代である。
2026年、この通路は消えている。Physical Intelligenceはπ0、π0-FAST、π0.5という一連のモデルの重み、学習コード、複数のタスク別チェックポイントを、ライセンス料も地域制限もなくGitHub上に公開した(*5)。中国のX Square Roboticsも同様に、Wall-OSS-0.5という別系統の基盤モデルの重みと学習コード、最適化の実装まで無償公開した(*6)。NVIDIAのGR00T N1に至っては、重みだけでなく学習データの一部までHugging Face上で無料公開している(*7)。60年前は一枚の特許が一国の産業を立ち上げた。今は、モデルそのものが国境なく、対価なく渡っている。
ただし「論文はすべて無料」と単純化するのも正確ではない。Google DeepMindのRT-2は論文こそ公開したが、モデルの重みは公開しなかった(*8)。公開の中身にも段差がある——論文は公開されても、重みまで渡すかどうかは会社ごとに判断が割れている。それでも大勢としては、モデルという「頭脳」の部分は年を追うごとに公開へ寄っている。
頭脳は配れるが、金は動く
頭脳を無料で配りながら評価額が上がる会社があるとして、その値段は何を担保にしているのか。PatentVestというIP調査会社(MDB Capital傘下)が2025年5月に公表した分析は、この矛盾を数字で示した。Figure AI、Sanctuary AI、Apptronik、Tesla Optimus、NEURA Robotics、Engineered Arts、1X Technologies、Collaborative Roboticsなど主要ヒューマノイド企業を含む794の主体、1万1千件超の特許ファミリーを横断的に調べ、評価額が跳ね上がっているスタートアップの多くは、歩行、バランス制御、アクチュエータ、把持といった中核技術で深い特許を持たず、その領域を実際に押さえているのは老舗の産業機械メーカー、アジアの財閥系企業、大学の研究室だと指摘している(*9)。金が集まる場所と、特許が積み上がる場所は、もはや同じ場所ではない。
Figure AIはこの構図をそのまま体現する。2025年9月、シリーズCで10億ドル超を調達し、ポストマネー評価額390億ドルに達した(*10)。同社が誇るのは特許庁の書類ではなく、年12,000体のヒューマノイドを製造できる自社ラインBotQと、アクチュエータ・手・電池・最終組立までの内製化計画である(*11)。守っているのは発明ではなく、量産する能力そのものだ。Google DeepMindのGemini Roboticsも、Apptronik、Agile Robots、Boston Dynamicsなど複数社と提携しモデルを提供する立場を取り(*12)、Figure自身のHelixも上半身・指・2体協調制御まで踏み込みながら、基盤モデルとしての性格を強めている(*13)。競争の場は、モデルの独占ではなく、モデルを土台にした量産と現場適用の速さに移っている。

| モデル | 発表主体 | 公開の中身 |
|---|---|---|
| Gemini Robotics / Robotics-ER | Google DeepMind | 論文・技術詳細を公開、モデル自体はtrusted testers提供(*12) |
| Helix | Figure AI | 論文・仕様を公開、重みは自社ロボット搭載限定(*13) |
| GR00T N1 | NVIDIA | 重み・学習データの一部をHugging Faceで無償公開(*7) |
| RT-2 | Google DeepMind | 論文のみ公開、重みは非公開(*8) |
| π0 / π0-FAST / π0.5 | Physical Intelligence | 重み・学習コード・チェックポイントを無償公開(*5) |
| Wall-OSS-0.5 | X Square Robot | 重み・学習コード・最適化実装を無償公開(*6) |
誰も渡さない記録
頭脳が無料になっても、その頭脳を鍛えた「動きの記録」までは無料にならない。ここに実際の堀がある。
学術目的の実演データセットは、たしかに公開が進んでいる。Open X-Embodimentは20を超える研究機関が持ち寄り、22種類のロボット、150,000タスク、100万件超のエピソードをまとめて公開した(*14)。DROIDはスタンフォード大学とカリフォルニア大学バークレー校が中心となり、50人の人間がフランカ・パンダ・アームをVRヘッドセットで遠隔操作し、52の建物・564の現場で7万6千本の実演軌道を350時間かけて記録し、そのすべてを研究コミュニティへ渡した(*15)。ここには具体的な人間がいる——50人の記録係が、実際に手を動かし、失敗も含めて残した記録である。

だが、この透明性は例外であって標準ではない。BMWの工場やFigureの倉庫のような商用の現場で日々記録されている動きの量は、公開データの何十倍にもなるはずだが、その記録の詳細——誰が、何時間、何回の失敗を経て記録したか——を、当事者企業は公表しない。2026年5月、Figureはサンノゼ近郊の倉庫でヒューマノイド「Jim」に荷物仕分けを担わせる配信を行い、当初8時間の予定が延び、最終的に81時間で10万1,391個を仕分けた。CEOのブレット・アドコックは「遠隔操作は一切入っていない」と説明したが、ロボティクス研究者アヤナ・ハワードは「商用サービスというより科学実験に近い」とコメントし、映像には荷物を正確な位置に置けない場面も繰り返し映っていたと報じられている(*16)。この産業では、動きの記録が公開されないだけでなく、その動きが人間由来か機械由来かという最も基本的な事実さえ、外部からは検証しづらい。
特許の量と、値段がつく場所のずれ
特許の「量」だけで見れば、中国が世界を圧倒している。ル・モンド紙は2024年の世界のロボティクス特許の3分の2が中国由来だと報じた(*17)。2026年3月のarXiv論文「Gold Rush」は、AI強化ロボットの特許出願が2010年代前半から急増し、中国では大学・公的機関の寄与が大きいと分析している(*18)。同年4月の別の分析も、中国が近年の年間AI特許出願数で米国を上回る一方、米国は大企業と既存クラスターに集中し、中国は大学・国有企業・地方都市に分散していると整理する(*19)。

だが特許の量は、商業的な支配をそのまま意味しない。米国側でいま評価額が最も高い企業群——Physical Intelligence、Figure——は、この量的競争にほとんど参加していない。ハードウェアの値段そのものも、特許の壁とは別の力で崩れている。UnitreeのG1は税・送料別で1万3,500ドルからという価格で売られており(*20)、この安さは特許による参入障壁の結果ではなく、量産と部品供給網の結果である。中国は出願件数で、米国の一部企業はデータと量産規模で、それぞれ異なる資産を取り合っている。二つの陣営は、同じ産業の異なる部分を担保にしている。
特許庁が数えていない資産
特許制度は、発明を公開する見返りに一定期間の独占を与える取引として設計されている。1968年、川崎重工業は一枚の特許のライセンス料を払って日本のロボット産業を立ち上げた。2026年、同じ産業の最先端にいる企業は、モデルの重みを無料で配りながら、評価額を吊り上げ、渡さないものだけを黙って抱えている。守られているのは発明ではなく、記録だ。そしてその記録は、特許庁のどんな出願書類にも載らない——載せた瞬間に、価値そのものが消えるからだ。
公開の対価として独占を与える制度は、公開されないことにこそ価値がある資産の上に築かれた産業を、どう扱えばよいのか。まだ、答えは書かれていない。
出典
*1 The Robot Report「Physical Intelligence raises $600M to advance robot foundation models」、confirmed
*2 Bloomberg「Ex-DeepMind Staffers' Robotics Startup in Talks for $11 Billion Valuation」(2026-03-27)、probable
*3 National Inventors Hall of Fame「George Devol Invented the Industrial Robot」、confirmed
*4 Kawasaki Robotics公式ブログ「The Story of the Kawasaki-Unimate」、confirmed
*5 GitHub「Physical-Intelligence/openpi」、confirmed
*6 PR Newswire「X Square Robot Open-Sources Wall-OSS-0.5」(2026-05-28)、confirmed
*7 NVIDIA Newsroom「NVIDIA Isaac GR00T N1 — the World's First Open Humanoid Robot Foundation Model」(2025-03-18)、confirmed
*8 arXiv「RT-2: Vision-Language-Action Models Transfer Web Knowledge to Robotic Control」、confirmed
*9 GlobeNewswire「New PatentVest Pulse Report Reveals IP Gaps in Billion-Dollar Humanoid Robotics Startups」(2025-05-14)、probable
*10 Figure AI公式「Series C」(2025-09-16)、confirmed
*11 Figure AI公式「BotQ」(2025-03-15)、confirmed
*12 Google DeepMind公式「Gemini Robotics brings AI into the physical world」(2025-03-12)、confirmed
*13 Figure AI公式「Helix」(2025-02-20)、confirmed
*14 Google DeepMind公式「Scaling up learning across many different robot types」、confirmed
*15 arXiv「DROID: A Large-Scale In-The-Wild Robot Manipulation Dataset」、confirmed
*16 Bloomberg「Figure AI Humanoid Robots Sorted Packages for 50 Hours Nonstop, CEO Says」(2026-05-15)、probable
*17 Le Monde「China's robotics industry surges amid promise of a $5 trillion market」(2025-08-16)、probable
*18 arXiv「The "Gold Rush" in AI and Robotics Patenting Activity」(2026-03-05)、probable
*19 arXiv「AI Patents in the United States and China」(2026-04-12)、probable
*20 Unitree公式 G1製品ページ、confirmed
未確認事項・要フォローアップ
- Physical Intelligenceを出願人とする特許の有無は、USPTO・Google Patents等の一般検索で確認を試みたが、専門の特許データベース(Lens、PatSnap等)による網羅的な確認は行っていない。「主要特許が見当たらない」は検索範囲内での不在確認であり、完全な不存在の証明ではない。
- PatentVest(MDB Capital)の分析は同社自身が発表した調査であり、1万1千件超の特許ファミリーの集計方法・分類基準について、第三者による再検証は確認できていない。
- Physical Intelligenceの追加調達(評価額約110億ドル)は2026年3月時点で「交渉中」との報道に留まり、クロージングの有無は本稿執筆時点で確認できていない。
- Figureの81時間ライブ配信について、CEOの「遠隔操作なし」という説明の真偽を独立に検証した第三者機関の報告は確認できていない。
- BMW工場やFigure倉庫など商用現場での実演データの規模(件数・時間)を示す一次情報は、各社とも非公開であり推定の域を出ない。