2023年7月22日、テスラのフリーモント工場。夜勤に入っていたベテラン整備士ピーター・ヒンターデーブラーは、背後からロボットに殴打され、意識を失った状態で床に転がった。ロボットは推定8,000ポンドのカウンターウェイトごと彼を押しつぶした。彼が訴えているのはテスラの人型ロボット「オプティマス」ではない。ファヌック製の、ごく普通の産業用ロボットアームである。ヒンターデーブラーは現在、テスラを相手取り5,100万ドルの損害賠償を求めて提訴している。テスラ側の防御線は単純だ ― カリフォルニア州労災法の「専属救済」条項により、この訴えはそもそも民事法廷に持ち込めない、というものである(*1)

この機械は、規格の空白の中で暴走したわけではない。産業用ロボットアームは、ISO 10218シリーズとANSI/RIA R15.06という、半世紀近い蓄積を持つ安全規格の傘の下で稼働している(*2)。規格があってもなお、責任の所在は法廷闘争になる。

ならば、規格そのものがまだ存在しない機械が同じ工場に入り始めたら、何が起きるのか。2026年、その答えが少しずつ姿を現しつつある。

順序が壊れた年

過去120年、機械の安全規格はほぼ一貫して同じ順序で生まれてきた。先に死者が出る。その死者の数が、規格を書く動機になる。

1905年3月、マサチューセッツ州ブロックトンのグローバー靴工場でボイラーが爆発し、58人が死亡、117人が負傷した。この惨事を機にASME(米国機械学会)は1911年にボイラー・圧力容器規格の策定に着手し、1915年に初版を発行した(*3)。20世紀初頭のエレベーターにはほとんど設計・運用の指針がないまま普及が進んでいたが、1921年にASMEは初の昇降機安全規格「A17」を制定した(*4)。1956年6月30日、グランドキャニオン上空で旅客機同士が空中衝突し、128人全員が死亡した。この事故が引き金となり、1958年に連邦航空法が成立してFAA(連邦航空局)が発足した(*5)。自動車では、ラルフ・ネーダーが1965年の著書『Unsafe at Any Speed』で自動車業界の安全軽視を告発し、1966年に全国交通自動車安全法が成立、1970年にNHTSA(米運輸省道路交通安全局)が発足した(*6)

この順序は自動運転にも繰り返された。グーグルの自動運転プロジェクトは2009年に始まり、2012年には公道試験に入った(*7)。テスラの「オートパイロット」は2015年10月、既存オーナー向けのソフトウェア更新として配信された(*8)。だがNHTSAが自動運転システムの事故報告を義務付けるStanding General Orderを初めて発行したのは2021年である。配備から実に6年から9年、規格は後を追いかけていた(*9)

ヒューマノイドだけが、この順序を逆転させようとしている。ISO/TC 299(ロボティクス専門委員会)は、ヒューマノイドを含む「動的に安定を制御する移動ロボット」を対象にした新規格ISO 25785-1の策定を進めているが、2026年5月時点でこの規格はまだ委員会原案(CD)の意見照会段階にすぎない(*10)。WSJは2026年7月、ISOの専門家パネルが転倒・安定性リスクを含む安全基準を検討中で、標準の公表は2028年半ば頃になる見通しだと報じている(*11)。一方でヒューマノイドは、すでに2026年の工場・倉庫・物流拠点で稼働を始めている。事故の前に規格を書く ― 120年の歴史の中で、これは初めての挑戦である。

分野先に来た死・事故後から来た規格・制度所要年数確度
ボイラーグローバー靴工場爆発、1905年、死者58人ASMEボイラー・圧力容器規格初版、1915年10年confirmed
エレベーター規制がほぼ無いまま普及した昇降機の事故頻発ASME安全規格A17初版、1921年confirmed
航空グランドキャニオン空中衝突、1956年、死者128人連邦航空法・FAA発足、1958年2年confirmed
自動車『Unsafe at Any Speed』刊行、1965年NHTSA発足、1970年5年confirmed
自動運転公道試験・市販開始、2012〜2015年NHTSA事故報告命令(SGO)初発行、2021年6〜9年confirmed
ヒューマノイド工場・倉庫への配備開始、2026年ISO 25785-1、委員会原案段階(2026年5月時点)、発行見込み2028年半ば未確定・進行中confirmed/probable
Years From Accident to Standard

規格の地図 ― つなぎ目に落ちる機体

ヒューマノイドの問題は、規格が無いことではない。既存規格の境界線の、どこにも属しきれないことである。

ISO 10218-1:2025は産業ロボット本体の安全要求を定めるが、公式ページは医療、ヘルスケア、サービスロボット、消費者製品、人を持ち上げる用途、移動プラットフォーム上の移動性を明確に適用外としている(*12)。ISO 10218-2:2025も産業ロボットアプリケーションとセルの統合・運用・保守を扱うが、サービスロボットや公衆アクセス用途は対象外である(*13)。協働ロボット向けのISO/TS 15066は、産業ロボットシステムと作業環境の安全要求を補完するが、非産業ロボットには適用されないと明記されている(*14)。つまり工場内で人と同じ空間に入る双腕・移動式ヒューマノイドは、規格上「産業ロボット」でも「移動ロボット」でも「サービスロボット」でもなく、そのどれとも重ならない隙間に立っている。

レイヤー主な制度・標準対象2026年時点の読み筋確度
ロボット機械安全ISO 10218-1/2:2025、ISO/TS 15066:2016、ANSI/RIA R15.06産業ロボット、協働ロボット、ロボットセルヒューマノイド全般は適用外条項に阻まれ直接カバーしにくいconfirmed
労働安全OSHA Technical Manual、29 CFR 1910.147/1910.333製造、倉庫、保守、教示、復旧作業事故は自動運転ほど可視化されず、非定常作業のリスク評価が弱点confirmed
AI・製品安全EU機械規則2023/1230、EU AI Act 2024/1689AI安全部品、機械、高リスクAI欧州市場ではCE、機械安全、AIリスク管理が一体化するconfirmed
自動運転NHTSA SGO、California DMV許可制度ADS、Level 2 ADAS、ロボタクシー事故データ報告と州別運行許可が商用展開のボトルネックconfirmed

この隙間の広さを測る目安が、IFR(国際ロボット連盟)の統計である。2024年の産業ロボット新規設置は542,076台、稼働在庫は4,663,698台、うち中国が295,045台・54%を占める(*15)。これは「規格の網が既に掛かっている母集団」の規模である。ヒューマノイドは、この母集団の外側でゼロから増え始めている機体群であり、既存の網の外側にいる分だけ、事故が起きたときに適用すべき条文そのものが定まらない。

Industrial Robots 2024 (IFR)

欧州ではEU機械規則2023/1230が、AI・IoT・ロボティクスといった新デジタル技術由来の安全リスクを製品安全法の枠内に取り込もうとしている(*16)。EU AI Act(2024/1689)も、AIが安全部品として機械に組み込まれる場合には高リスクAIの要求を考慮する条項を持つ(*17)。自動運転についても、カリフォルニア州DMVが試験・展開・事故報告の許可制度を運用している(*18)。だがこれらはいずれも「ロボットに人型の身体があり、転倒し、把持し、全身で人に接触する」という、ヒューマノイド固有のリスクを名指しで扱う条文ではない。

空白を埋めるのは誰か ― 保険、労災、法廷

規格が無い期間、責任の所在を決めるのは条文ではなく、保険約款と労災法と法廷での主張になる。そして2026年、この3つの制度は、ヒューマノイドの増加と逆方向に動いている場所がある。

米国では2026年に入り、バークシャー・ハサウェイ、チャブ、トラベラーズ、AIGといった大手保険会社が、AI関連の損害を一般賠償責任(GL)保険から除外する条項の承認を州当局に申請し、80%超が承認されたと報じられている。除外の骨格は2026年1月1日発効のISO(保険サービス機構)標準保険約款CG 40 47・CG 40 48・CG 35 08であり、これらは自律・ロボティクスシステムによる財物損害を含む一連のAI関連事象を対象にしている(*19)。つまり、ヒューマノイドが工場や倉庫に増えていくまさにその時期に、保険会社の一部はロボットが起こす損害の引き受けから後退し始めている。ヒンターデーブラーの訴訟でテスラ側が労災の専属救済条項を持ち出したのも、この空白の中では自然な動きである。既存の枠組みが、新しい機体のリスクを飲み込みきれていない。

一方、中国は逆方向の実験をしている。中国太平洋保険は2025年9月、ヒューマノイドの生産・販売・リース・利用の全過程を対象にした「机智保」という専用保険商品を国内で初めて投入した。溶接アームの誤作動やレスキューロボットの転倒といった具体的な事故シナリオに応じた条項を持ち、日次・週次・月次の保険料設定も用意している。11月には華中科技大学の起業支援施設が、60キログラム級ヒューマノイド2体に1体あたり約5,000元(約707ドル)の保険料を支払い、損害発生時には最大50万元の補償を受けられる契約を結んだ(*20)。規格が無い期間を、米国の保険業界は縮小で埋め、中国の保険業界は専用商品の新設で埋めている。どちらも「規格が来るまでの代役」であることに変わりはない。

事業領域安全・規制コストの形空白期の埋め方失敗パターン
ヒューマノイド転倒・接触・把持・遠隔運用のリスク評価中国は専用保険商品、米国は既存GL保険からの除外デモの汎用性を過信し、現場の熱・埃・故障・保守で止まる
倉庫・製造AMROSHA/ANSI/RIA、現場別リスクアセスメント既存の労災・製造物責任フレームで対応生産性圧力で作業者負荷が増え、労災・離職で逆効果
ロボタクシーNHTSA報告、州許可、地元合意事故報告制度と運行許可が既に一定機能事故隠し、過大マーケティング、州・市との摩擦
医療・介護医療機器規制、施設責任既存の医療機器承認プロセスを転用臨床価値と保守体制の証明が償却・保険と合わない

労働安全側のデータも薄い。CDC/NIOSHは、産業用ロボット、協働ロボット、移動ロボット、外骨格などが新たな危険を導入すると整理する一方、ロボット関連の労災を稼働台数・稼働時間・作業者接近頻度とひも付けて記録する仕組みがまだ整っていないと事実上認めている(*21)。ヒンターデーブラーのような個別訴訟が積み上がっても、それが業界全体のリスク像として集計される制度がない限り、次の規格づくりに反映される保証もない。

なぜ今回だけ「先に」書こうとしているのか

技術的な理由は単純ではない。2025年のSPARK論文は、ヒューマノイドの複雑な身体構造とテレオペレーション・自律運用双方の安全評価の難しさを指摘し、Unitree G1を含む安全制御ベンチマークを提示している。脚式移動では転倒と復帰そのものが安全機能の一部になり、把持力・腕長・荷重・工具・対象物の組み合わせでリスクの形が変わり続け、VLAモデルや強化学習で行動が更新される場合、従来の「固定された動作範囲と速度を検証する」という発想だけでは足りない(*22)。ISO 10218のような「柵の中に危険源を隔離する」設計思想は、そもそも同じ通路を人と歩くヒューマノイドには適用しづらい。

政治的な理由もある。米国のロボット企業は2025年、中国との競争を背景に、国家ロボット戦略と中央オフィスの設置を議会関係者に求めて会合したと報じられている(*23)。安全規格の空白は、産業政策上の空白でもある ― 規格を最初に書いた側が、その規格に沿って作られた機体を世界に売る側になる。WSJが伝えるAgility Roboticsの評価額25億ドルやMorgan Stanleyの2050年ヒューマノイド市場7.5兆ドル予測は、この空白の経済的な賭け金の大きさを示している(*11)。ISO/TC 299の作業部会をAgility RoboticsやBoston Dynamics自身が主導しているという構図は、猟師が最初の獲物を仕留める前に狩猟法を書いているようなものだ。これまでの120年間、規格を書いたのは事故の後始末をする側だった。今回は、事故の前に規格を書こうとしている側に、規格の対象そのものを作っている企業が並んでいる。

残された時間

規格は死者を数えてから書かれてきた。今回だけ、死者を数える前に書こうとしている。だが、もし2026年から2028年の空白期間のどこかで、ヒンターデーブラーの事故に匹敵する規模の事故がヒューマノイドで起きたら、その規格は本当に「事故の前」に書かれたことになるのか。それとも、公表が数か月早まっただけで、結局はいつもの順序 ― 事故が規格を追い立てる順序 ― に呑み込まれるのか。120年破られなかった順序を初めて破ろうとする実験は、その空白期間そのものによって、まだ試されている最中である。

出典

*1 Manufacturing Dive「Former factory worker sues Tesla after robotic arm knocks him unconscious」、probable

*2 OSHA「Industrial Robot Systems and Industrial Robot System Safety」、confirmed

*3 ASME「The History of ASME's Boiler and Pressure Vessel Code」、confirmed

*4 ASME「Heavy Lifting: The History of the Elevator Code」、confirmed

*5 FAA「A Brief History of the FAA」、confirmed

*6 Wikipedia「National Highway Traffic Safety Administration」、probable

*7 Wikipedia「Waymo」、probable

*8 CNBC「Tesla rolls out autopilot technology」(2015-10-14)、probable

*9 NHTSA「Standing General Order on Crash Reporting」、confirmed

*10 ISO「ISO/CD 25785-1 — Robotics — Safety requirements for dynamically stable industrial mobile robots — Part 1: Robots」、confirmed

*11 WSJ「The Quest to Make Humanoid Robots Safe Enough for Humans」(2026-07-04)、probable

*12 ISO「ISO 10218-1:2025」、confirmed

*13 ISO「ISO 10218-2:2025」、confirmed

*14 ISO「ISO/TS 15066:2016」、confirmed

*15 IFR「World Robotics 2025 Executive Summary」、confirmed

*16 EUR-Lex「Regulation (EU) 2023/1230」、confirmed

*17 EUR-Lex「Regulation (EU) 2024/1689」、confirmed

*18 California DMV「Autonomous Vehicles」、confirmed

*19 The Information「Berkshire Hathaway, Chubb Win Approval to Drop AI Insurance Coverage」、probable

*20 China Daily「Insurance policy for humanoid robots」、probable

*21 CDC/NIOSH「Robotics」、confirmed/probable

*22 arXiv「SPARK」、probable

*23 AP「US robot makers seek national strategy」、probable

未確認事項・要フォローアップ

  • ISO 25785-1の最終発行時期は、WSJ報道による「2028年半ば見込み」以外に確定情報がない。委員会原案(CD)段階から発行までの標準的な所要年数を踏まえると前後する可能性がある。
  • 保険業界のAI除外条項(CG 40 47/CG 40 48/CG 35 08)の具体的な承認州数・承認率は、報道ベースの確認に留まり、州保険当局の一次公開資料までは遡れていない。
  • テスラ・ファヌックの訴訟における労災専属救済条項の適用可否は係争中であり、判決・和解の結果は本稿執筆時点で確認できていない。
  • 中国のヒューマノイド専用保険(「机智保」等)が、国レベルの安全規制・監督枠組みとどう接続するかは未確認。
  • 日本・韓国、および欧州(ISO以外)のヒューマノイド固有安全規制の準備状況は本稿では扱いきれておらず、別途調査が必要。
  • 自動運転(NHTSA SGO、州許可制度等)は本稿では「規格が配備を追いかけた事例」としてのみ扱った。EU/UNECE、日本、中国の詳細な運用制度は別稿を要する。
  • OSHA/NIOSHのロボット関連労災は、分類・母数・稼働時間のデータが依然薄く、企業別事故ログ、保険金請求、稼働台数の連結が今後必要になる。