2.54秒、99.5%。2026年にSanctuary AIが発表したこの数字は、ヒューマノイドの華やかな発表群と比べればほとんど注目されなかった。自動車部品のティア1サプライヤーの工場で、動くコンベヤの上を流れてくるワイヤーハーネスを、正しい向きでコネクタへ挿し込む作業の平均時間と成功率である。歩きもしない。しゃべりもしない。ただ掴んで、挿すだけの数字だ。

だが自動車組立ラインの人間工学の文献では、ワイヤーハーネスのコネクタ挿入は繰り返し名指しされてきた作業でもある。反復による手根管症候群や腱鞘炎を引き起こす典型例として、業界誌はこの工程を何度も取り上げてきた(*1)。人間の手にとって「簡単」だからこそ、何千回、何万回と繰り返され、そのたびに手首と指の腱を摩耗させてきた作業だということである。機械には難しく、人間には簡単で、しかもその簡単さが人間の身体を消耗させる——このねじれた場所に、Sanctuary AIは創業から8年、居座り続けている。

40年前に名指しされた弱点

1988年、カーネギーメロン大学のロボット研究者Hans Moravecは著書『Mind Children』で一つの逆説を定式化した。知能検査で大人並みの成績を出したり、チェスやチェッカーで人間を負かしたりすることは、コンピュータにとって比較的簡単である。一方、知覚と運動においては、1歳児の水準に到達させることさえ難しいか、不可能に近い(*2)。以来この逆説は「Moravecのパラドックス」と呼ばれてきた。

Moravec自身は、オーストリア生まれでモントリオールとノバスコシア州に学び、オンタリオ州で修士号を得てからスタンフォードへ渡ったカナダ育ちの研究者である(*3)。「機械は掴めない」という弱点を名指しした人物がカナダで教育を受け、40年後にはカナダ・バンクーバーの企業がその弱点だけに賭けている。

チェスはその後、機械に落ちた。電卓も、翻訳も、いまや文章生成の相当部分も機械に落ちつつある。しかし一歳児が無造作にできること——コップを掴む、紐をほどく、洗濯物を畳む——は、2026年になっても機械にとって難所であり続けている。Sanctuary AIが賭けているのは、この40年間ほとんど動いていない一点である。

全身を作る夢から、手一本の商売へ

Sanctuary Cognitive Systems Corporationは2018年、バンクーバーで創業した。当初の看板は「世界初の人間のような汎用知能を持つロボット」という、身体全体を対象にした壮大なものだった(*4)。2023年5月に発表した第6世代ロボットPhoenixは、身長5フィート7インチ、重量155ポンド、最大可搬55ポンド、最高速度3mph、20自由度のハンドという、全身のスペックを揃えた製品だった(*5)

項目内容確度
正式社名Sanctuary Cognitive Systems Corporationconfirmed
創業2018年、カナダ・バンクーバーconfirmed
現CEODaniel Friedmann(2026年就任、前任はJames Wells)confirmed
共同創業者・関連人物Olivia Norton(CTO)、Ajay Agrawal、Geordie Rose(元CEO)confirmed
累計調達額1.4億米ドル超(2024年発表時点)confirmed

だが第7世代、第8世代と代を重ねるうちに、公式発表の重心は静かに動いていく。第7世代では稼働率・視覚認識・触覚・可動域が改善され、新規タスクの自動化に要する時間が「数週間」から「24時間未満」へ短縮されたと発表された(*6)。第8世代では車輪ベースの構成が採用され、データ取得の質そのものが目的化した(*7)

そして2026年、公式ソリューションページは二足ヒューマノイドを将来構成へと格下げし、既存の産業用ロボットアーム(FANUC、Universal Robots)へ自社のAIを実装する取り組みを「Now Deploying」と位置づけた(*8)。これは撤退ではない。二足歩行という難問を後回しにし、Moravecが名指しした一点——掴む、挿す、操る——にリソースを絞り込む選択である。

製品・構成公開スペック・特徴確度
Phoenix 第6世代(2023)身長5フィート7インチ、体重155ポンド、可搬55ポンド、時速3マイル、20自由度ハンドconfirmed
Phoenix 第7世代稼働率・視覚・触覚・可動域を改善、新タスク自動化を24時間未満に短縮confirmed
Phoenix 第8世代車輪ベース、データ取得特化、視野・センサー・BOM改善confirmed
Carbon記号推論・LLM・強化学習・シミュレーション・テレオペ・フリート管理を統合する制御基盤confirmed
Physical AI-enabled automationFANUC/Universal Robots等の既存アームへAIを実装、ワイヤーハーネス挿入で成功率99.5%超・2.54秒/プラグconfirmed
独自油圧ハンド17自由度設計(現行の産業向け)、統合触覚、低圧・自動故障保護confirmed

自由度の数字は資料によって揺れる。第6世代Phoenixは20自由度、2024年頃のin-hand manipulationのデモでは21自由度、現行の産業向けハンド紹介ページでは17自由度と記載されている。これは矛盾というより、汎用ヒューマノイド用のハンドと、産業アーム向けに新設計されたハンドという、異なる商品ラインが並走している証拠と見るのが妥当である。

Hand Degrees of Freedom by Product Line

触れて、感じて、掴む

Sanctuary AIの手が採用する駆動方式は油圧である。ミニチュア油圧バルブを2億回以上作動させても、漏れや劣化の兆候はなかったと同社は発表している(*9)

油圧は目新しい技術ではない。世界初の産業用ロボットとされるUnimateは、1961年にゼネラルモーターズの工場でダイキャスト部品を運搬・溶接する仕事に就いた際、油圧で駆動する5自由度のアームだった(*10)。その後、産業用ロボットの主流は電動サーボモーターへ移り、油圧は制御性で劣る旧世代の技術として扱われてきた。Sanctuary AIが手にだけ油圧を採用し直しているのは、出力密度と衝撃耐性が指先の微妙な力加減に向くという技術的判断であり、懐古趣味ではない。それでも、65年前に工場へ最初に足を踏み入れたロボットの血が、いまも手の中に流れているという事実は動かない。

触覚面では、Tangible Researchの買収とGiant AIからのIP取得が中核にある。同社は、触覚が視覚を遮られた状態でのブラインドピッキング、滑り検出、過大な力の抑制を可能にし、より豊かな行動データをAIモデルへ供給すると説明している(*11)。この手を支えるサプライチェーンには、Cycorp(記号推論の排他ライセンス)、Apptronik(初期の身体設計協業)、Common Sense Machines(3Dアセット・世界モデル)、Contoro(高精度テレオペ)、HaptX(触覚グローブ)、Exonetik(アクチュエータ)が並び、Bell・VerizonのネットワークとNVIDIA Isaac Labのシミュレーションがそれを取り巻く(*4)。全身のヒューマノイドを支えるはずだった提携網が、いまは手一本の精度を支えている。

カナダという、腕の国

資金面では、政府と自動車産業がSanctuary AIを支えてきた。

年・ラウンド内容主な投資家・資金源確度
2021年以降Magnaが投資家として参加Magnaconfirmed
Series AC$75.5M(US$58.5M)をクローズBell、Evok Innovations、Export Development Canada、Magna、SE Health、Verizon Ventures、Workday Venturesconfirmed
2022年11月カナダ政府Strategic Innovation FundからC$30M拠出Government of Canadaconfirmed
その後BDC Capital、InBCが戦略投資、累計1.4億米ドル超に到達BDC Capital、InBCconfirmed

評価額、売上、受注残は非公開のままである。確認できる確かな数字は、このラウンドの合計だけである。

Disclosed Funding (CAD)

2026年、経営トップも交代した。新CEOのDaniel Friedmannは、カナダの宇宙ロボティクス企業MDA(MacDonald, Dettwiler and Associates)を約20年率いた人物である(*12)。MDAの宇宙ロボティクス部門の前身であるSpar Aerospaceは、1981年にスペースシャトルへ搭載されたロボットアームCanadarmを開発した企業であり、この部門は1999年にMDAへ吸収された(*13)。カナダの産業史において「腕」は珍しい輸出品ではない。宇宙で物を掴んだ国の企業が、いま工場で物を掴む番である。

カナダはヒューマノイド競争の主戦場ではない。資金規模で見れば、Tesla、Figure、Boston Dynamicsを抱える米国にも、ヒューマノイド量産を国策で進める中国にも及ばない。だが政府のSIF拠出、自動車部品大手Magnaの出資、宇宙ロボティクスの人材が合流するSanctuary AIは、両大国のどちらの陣営にも属さない「第三極」として、この分野に居場所を作ってきた。

店の棚と、動くコンベヤの上

Sanctuary AIが実際にロボットを働かせた現場は、まだ多くない。2023年1月、ブリティッシュコロンビア州ラングリーのCanadian Tire系列店Mark'sで、週次のパイロットが行われた。店頭とバックヤードで、ピッキング、梱包、清掃、タグ付け、ラベリング、折りたたみといった仕事を担当し、110件のタスクを完了したと発表されている(*14)。これは、それまで店員の手が担ってきた仕事のリストでもある。

顧客・現場内容成果指標確度
Canadian Tire / Mark's(ラングリー)週次パイロット、ピッキング・梱包・清掃・タグ付け等110件のタスク完了confirmed
Magna自動車製造工程への導入評価、戦略提携台数・成果指標は非公開confirmed
ティア1自動車サプライヤー(2026年)動くコンベヤ上のワイヤーハーネス挿入成功率99.5%超、2.54秒/プラグ、購入注文獲得confirmed
MicrosoftAzureを用いたAIモデル開発協業顧客導入ではなく技術協業confirmed

ティア1自動車サプライヤーの案件は、社名も、台数も、契約金額も公表されていない。だがこの案件が示すのは、Phoenixのようなヒューマノイド本体ではなく、既存の産業用アームにPhysical AIを載せただけで、人間の手が消耗しながら担ってきた作業を代替できるという実証である。ヒューマノイドの完成を待つ必要はない、という選択でもある。

特許は積み上がるが、値札は見えない

Sanctuary AIは米国特許80件超、グローバル特許資産250件超を保有すると発表している。ML部門は査読論文121本超・引用7,100件・特許39件、ハードウェア部門は特許34件超・論文70本超・合算270年以上のハードウェア経験を持つという(*15)。Morgan Stanleyがヒューマノイド関連の米国公開特許でSanctuary AIを上位に位置づけたとも伝えられるが、公式な確認は取れていない(*15)。採用面では、AI/ML研究者、データサイエンティスト、ソフトウェアエンジニア、シミュレーション専門家、機械・電気・制御エンジニアの採用が公式発表で繰り返し言及されているが、具体的な求人件数は確認できていない。

一方で、Phoenixの価格、バッテリー持続時間、量産台数、稼働時間、保守費用は一貫して非公開である。時給換算の「labor as a service」型の商用モデルを志向しているとの外部報道もあるが、Sanctuary AI自身の価格表やSLAは確認できていない。

競合の多くは、この空白を埋めるように全身の性能を誇示する。Figure AIはFigure 02/03とHelixでエンドツーエンドのVLAとBMW工場実証を打ち出し、Agility RoboticsのDigitは倉庫・物流での導入実績とSPAC上場計画を公表している。Boston Dynamics Atlasは電動化した全身運動性能をCES 2026で披露し、HyundaiのジョージアEV工場での組立支援を2028年までの目標に掲げたと報じられている(*16)。X上では、電動Atlasが2026年生産分完売、Tesla Optimus Gen3が2026年1月に量産開始、Atlasが10時間の自律稼働を達成、といった投稿が広がっているが、公式発表や独立報道による裏付けは確認できていない。これらの数字を投資判断や競合比較の前提にするべきではない。

Sanctuary AIはこの全身競争にほとんど加わらない。歩行性能も、量産台数も、看板には出てこない。出てくるのは自由度の数字と、成功率と、挿入時間だけである。

どちらが先に、職を得るか

チェスも電卓も翻訳も、この40年で次々と機械に落ちた。文章を書く仕事さえ、いまや機械が肩代わりし始めている。だが一歳児が無造作にできること——掴む、摘む、はめる、畳む——は、依然として最後の難所であり続けている。皮肉なのは、労働市場がこの逆説とほぼ正反対の序列で仕事を評価してきたことだ。チェスのような抽象的思考を要する仕事は「高度」とされ、コネクタを挿す作業は「単純」とされてきた。だが機械が先に奪ったのは前者であり、40年経ってもなお手つかずなのは後者の方である。

ヒューマノイド各社は歩行と会話のデモで観客を沸かせる。Sanctuary AIが見せてきたのは、その反対——歩かず、目立たず、ただ2.54秒でコネクタを挿す手だけである。歩けるが掴めないロボットと、掴めるが歩かないロボットが同じ工場の門の前に立ったとき、先に仕事を得るのはどちらなのか。Moravecが40年前に名指しした弱点を、まだ誰も完全には克服していないという事実だけが、いま確かなことである。

出典

*1 The Ergonomics of Wire Harness Assembly、confirmed

*2 Moravec's paradox、confirmed

*3 Hans Moravec、confirmed

*4 About Sanctuary AI、confirmed

*5 Sanctuary AI Unveils Phoenix、confirmed

*6 Sanctuary AI Unveils the Next Generation of AI Robotics、confirmed

*7 Sanctuary AI Releases New Generation of AI Robots for High Quality Data Capture、confirmed

*8 Physical AI-Enabled Automation、confirmed

*9 Sanctuary AI Demonstrates In-Hand Manipulation、confirmed

*10 In 1961, the First Robot Arm Punched In、confirmed

*11 Sanctuary AI Equips General Purpose Robots with New Touch Sensors、confirmed

*12 Daniel Friedmann Appointed CEO of Sanctuary AI、confirmed

*13 Canadarm、confirmed

*14 Sanctuary AI Deploys First Humanoid General-Purpose Robot Commercially、confirmed

*15 Meet the Team、confirmed(Morgan Stanleyの特許ランキング言及部分はprobable)

*16 Hyundai and Boston Dynamics unveil humanoid robot Atlas at CES(AP、2026年)、probable

未確認事項・要フォローアップ

  • Phoenix第8世代の重量、可搬、速度、バッテリー、連続稼働時間、価格、量産台数。
  • 産業用17自由度油圧ハンドとPhoenix搭載20/21自由度ハンドの正確な製品関係。
  • ティア1自動車サプライヤーの社名、購入注文金額、納入台数、現場稼働時間、SLA。
  • Magnaでの実導入台数、ライン名、タスク、成果指標。
  • 「labor as a service」の正式な価格体系、保守条件、顧客契約構造。
  • BDC/InBC戦略投資の個別金額、最新評価額、最新株主構成。
  • Morgan Stanleyのヒューマノイド特許ランキングの原文。
  • 具体的な求人件数・採用ペース。
  • X上で流れているAtlas/Optimusの2026年量産・完売・長時間自律稼働情報の一次情報による確認。