1974年、スウェーデン中部ヴェステロース。ASEAの技術者たちが仕上げた試作機は、5軸で動き、可搬重量はわずか6kg、頭脳はインテル製8ビットマイクロプロセッサ、メモリは16キロバイトだった(*1)。世界初の全電動・マイクロプロセッサ制御の産業用ロボット、IRB6である。最初の顧客は自動車工場でも家電メーカーでもなかった。スウェーデン南部の小さな金属加工工房マグヌソンが、食品産業向けのステンレス管を磨くために一台を買った(*1)。ロボットが最初に肩代わりしたのは、パイプを磨き続ける人間の手だった。
それから半世紀。ASEAは1988年にスイスBBCと合併してABBとなり、この系譜は世界最大級の産業用ロボット事業に育った(*2)。そして2025年10月、ABBはこのロボティクス部門を日本のソフトバンクグループへ53.75億ドルで売却する契約を結んだ。クロージングは2026年半ばから後半にかけてを見込む(*3)。腕を発明した大陸は、その腕の所有者であり続けることをやめようとしている。
二度目の年、二度目の腕
これは初めてではない。2016年、独KUKAが中国Midea集団に買収されたとき、Mideaは5.4%だった持ち株を1年足らずで95%近くまで積み上げた。当時のドイツにはこの規模の買収を止める審査法制がなく、経済省は安全保障上の脅威なしとして承認した。だが世論の反発は大きく、ドイツは翌2017年にフランス・イタリアと組んでEUに協調審査の議論を持ち込み、これが2019年のEU初のFDI(対内直接投資)審査規則の起点になった。ドイツ自身も、審査対象となる出資比率の下限を25%から10〜20%へ引き下げる法改正に動いた(*4)。
ABBの今回の売却は、KUKAに続く欧州発ロボット大手の域外資本への移転として、二度目の事例になる。ただし買い手は中国の国家資本ではなく、日本の投資会社ソフトバンクグループだ。買い手が中国か日本かという違いより重いのは、欧州がわずか10年で二度、自ら育てた産業用ロボットの旗艦を域外へ渡したという回数そのものである。
なお、これは一方的な「喪失」の物語ではない。ABBにとって今回の売却は、税引前で約24億ドルの帳簿上の利益、手取りで約53億ドルの現金をもたらす見込みの、合理的な資産売却でもある。分離費用は約2億ドル、税務コストは4〜5億ドルと見積もられている(*3)。KUKAが被買収企業として売られたのに対し、ABBは売り手として交渉のテーブルについている。欧州が腕を失うのではなく、欧州の経営陣が腕を手放す判断を自ら下した、という点は区別しておく必要がある。
手放されるものの中身
| 項目 | 内容 | 確度 |
|---|---|---|
| 起源 | ASEAが1974年にヴェステロースで開発したIRB6が世界初の全電動・マイクロプロセッサ制御産業用ロボット。1988年にスイスBBCと合併しABBとなる(*1、*2) | confirmed |
| 親会社(現在) | ABB Ltd(スイス・チューリッヒ本社)。2025年12月期の連結売上332.2億ドル、R&D投資13.18億ドル、従業員約11万人(*5) | confirmed |
| Robotics部門規模 | 従業員約7,000人。2025年通期売上23.31億ドル・営業利益2.94億ドル(2024年は売上22.67億ドル・営業利益3.31億ドル)(*6)。グループ売上の約7%、EBITDAマージン12.1%程度と報じられる(*8) | confirmed |
| 2026年第1四半期 | 売上5.37億ドル(前年同期5.53億ドル)、営業利益3,600万ドル(前年同期9,000万ドル)(*7) | confirmed |
| 売却契約 | 2025年10月、ソフトバンクグループへ企業価値53.75億ドルで売却する契約。クロージングは2026年半ば以降、EU・中国・米国の規制当局の承認が条件(*3) | confirmed |
| 生産拠点 | 世界3工場体制 — ヴェステロース(欧州向け)、Auburn Hills・ミシガン(南北アメリカ向け、供給の約9割)(*9)、上海(アジア向け、2022年開設・1.5億ドル投資・67,000㎡)(*10) | confirmed |

現場で動いている腕
売却の対象は、帳簿上の資産ではなく、いま現場で稼働している具体的な機械群である。協働ロボットGoFa(可搬5〜14kg、リーチ最大1.62m)、双腕協働のYuMi、小型のIRB 1010・1100・1300シリーズ、可搬150〜310kgの大型IRB 6710/6720/6730/6740、Delta・SCARA・塗装・パレタイジング専用機、AMR(自律走行搬送ロボット)、そしてオフラインプログラミング/デジタルツインのRobotStudioまでを一つのポートフォリオとして持つ(*11、*12)。
2026年3月、Financial TimesはNVIDIAとABBが提携し、RobotStudioにNVIDIA Omniverseを統合した「RobotStudio HyperReality」をFoxconnで試験中と報じた。仮想環境で訓練したロボットの挙動と物理現場の差を縮め、2026年後半の商用提供を目指すという(*13)。同じ2025年5月には、カリフォルニアの小さな飲食店BurgerBotsが、ABBのIRB 360 FlexPickerとYuMiを使い、QRコードで注文情報を読み取りながら27秒でバーガーを組み立てる仕組みを公開した。創業者エリザベス・トゥルオンは、これを商業展開の第一歩と位置づけている(*14)。
半世紀前、ステンレス管を磨いていたのは小さな金属工房だった。いま同じ会社のロボットがパティを挟んでいるのは、小さな飲食店である。ABBという企業の看板が変わり、所有者がスウェーデンからスイス・スウェーデン、そして日本へと移っても、この会社が実験台に選び続けてきたのは、常に現場の小さな事業者だった。研究面でも、ヴェステロースのABB Corporate ResearchはAstraZenecaと共同で、ロボットが実験室のガラス器具を運び・洗浄する「モバイルマニピュレーション」課題に取り組んでいる(*15)。腕は単体の機械であることをやめ、認識・移動・操作を統合する方向へ進んでいる最中に、持ち主だけが変わる。
同じ年、逆方向へ流れた金
2026年6月、ドイツのNEURA Roboticsは最大14億ドル(約12億ユーロ)のシリーズCを発表した。出資者にはNVIDIA、Amazon、Qualcomm、Bosch、Schaefflerに加えて欧州投資銀行(EIB)が名を連ね、評価額は70億ドルに達したとされる。EIBの参加を仲介した法律事務所は、この資金調達を公式にアドバイスした立場から発表している(*16)。報道では、AIとロボティクスはすでにEUの重要技術リストに加えられており、欧州域内で製造される競争力あるヒューマノイド企業を持つことが政治的な優先課題になっているという(*17)。
同じ年、ABBという欧州最大級の産業用ロボット事業の一つは、日本の投資会社へ渡ろうとしている。NEURAが受け取る資金は、まだ市場での大量導入実績のないヒューマノイド構想への賭け金である。ABBが手放すのは、Foxconnやカリフォルニアの飲食店で現に動いている、実績のある腕である。技術主権を掲げる資金が未来のロボットへ流れ込む一方で、今すでに現場で稼いでいる腕は域外へ出ていく。EUが守ろうとしているのは技術そのものなのか、それとも次の腕を自前で持つまでの時間稼ぎなのか、この二つの動きを並べるとその境目がはっきりしない。
ソフトバンクの列
ソフトバンクにとって、身体を持つAI・ロボットへの投資はこれが初めてではない。2014年のPepper、2017年に取得し2021年にHyundaiへ売却したBoston Dynamics、そして2024年以降Skild AIへ重ねてきた出資 — Wall Street Journalは、ソフトバンクのロボット投資には成功と失敗が混在してきたと指摘している(*18)。Skild AIは2026年1月、ソフトバンク主導の資金調達により評価額140億ドルを超えたと報じられた(*19)。ABB Roboticsは、この列の中で最も大きく、そして最も「すでに黒字で回っている」買収である。ソフトバンクが集めているのは、まだ形になっていない未来の身体だけでなく、いま実際に工場で稼働している身体でもある、という点がこれまでとの違いだ。

短期の数字は加速を語っていない
売却の理屈は「Physical AIの中核資産」だが、直近の財務はその物語ほど威勢が良くない。2025年通期は増収の一方で営業利益が減少し、2026年第1四半期は売上・営業利益とも前年同期割れとなった(*6、*7)。ソフトバンクが54億ドル規模の買収をどう賄うかについて、2025年10月時点でFinancial Timesが伝えたのは「自己資金、資産担保融資、負債性資金調達の組み合わせを検討中」という段階までである(*20)。X上では、ソフトバンクが買収資金の借り入れをすでに進めているとの投稿が広がっているが、裏付けは取れていない(*21)。

ヴェステロースの、次の持ち主
ヴェステロースの工場は、いまも欧州向けにロボットを作り続けている(*10)。ミシガン州Auburn Hillsでは2023年に2,000万ドルを投じた拡張で72人の新規雇用が生まれ、南北アメリカ向けロボットの9割はここから出荷される(*9)。上海の工場は2022年に1.5億ドルを投じて開設され、アジア向けを担う(*10)。三つの工場のどこでも、ロボットを作っているのは相変わらず人間である。変わるのは、その先で誰が議決権を持つかだけだ。
半世紀前、ヴェステロースの技術者たちがIRB6を世に出したとき、その所有者はスウェーデンの電機メーカーだった。KUKAが中国資本に渡った10年前、ドイツは法律を書き換えて次を防ごうとした。そして今、防いだはずの次が、日本の資本という形で欧州最大級のロボット事業に起きている。EIBがNEURAに14億ドル規模の資金を注ぎ、技術主権を守ると宣言する同じ年に、である。発明した場所が所有者であり続けられないのだとしたら、次にNEURAが十分な規模に育ったとき、その議決権はどこにあるのだろうか。
出典
*1 ABB公式「25 years of ABB robots」、confirmed
*2 ABB公式「History of ABB」、confirmed
*3 ABB公式「ABB to divest Robotics division to SoftBank Group」(2025-10-08)、confirmed
*4 European Council on Foreign Relations「Germany's turnabout on Chinese takeovers」、confirmed
*5 ABB公式「About ABB」、confirmed
*6 ABB Q4 2025 Financial Information(ABB公式investor relationsライブラリ内文書)、confirmed
*7 ABB Q1 2026 Financial Information(ABB公式investor relationsライブラリ内文書)、confirmed
*8 TechCrunch「SoftBank bulks up its robotics portfolio with ABB Group's robotics unit」(2025-10-08)、probable
*9 The Robot Report「ABB expands robot production and training in Auburn Hills, Mich.」、confirmed
*10 ABB公式「ABB opens state-of-the-art robotics mega factory in Shanghai」、confirmed
*11 ABB公式製品ページ GoFaほかIRB 1010・1100・1300・6710各シリーズページ、confirmed
*12 ABB公式「ABB Robotics」トップページ、confirmed
*13 Financial Times「Nvidia and ABB launch partnership for AI-enabled autonomous robots」(2026-03-09)、probable
*14 ABB公式「ABB and BurgerBots unveil robotic burger-making to revolutionize fast food prep」、confirmed
*15 arXiv「The First WARA Robotics Mobile Manipulation Challenge」、probable
*16 Noerr「Noerr berät die Europäische Investitionsbank bei Finanzierung der NEURA Robotics GmbH」(2026-06-18)、confirmed
*17 EU-Startups「Germany's NEURA Robotics raises up to €1.2 billion in Series C round to build Physical AI from Europe」(2026-06)、probable
*18 Wall Street Journal「SoftBank Expands AI Footprint With Multibillion-Dollar Robotics Deal」(2025-10-08)、probable
*19 Bloomberg「Robotics Startup Skild Valued Above $14 Billion After SoftBank-Led Funding Round」(2026-01-14)、probable
*20 Financial Times「SoftBank to buy ABB's robotics unit in $5.4bn deal」(2025-10-08)、probable
*21 X上の投稿(ソフトバンクによるABB Robotics買収資金の借り入れが進行中とする内容、投稿主・URL未特定)、rumor
未確認事項・要フォローアップ
- ソフトバンクによるABB Robotics買収の規制承認の進捗、最終クロージング日、買収後の社名・本社所在地・経営体制。
- 買収資金の具体的な調達方法(自己資金・資産担保融資・負債性資金調達の内訳)、貸し手、金利、返済条件。X上の投稿は未確認。
- Robotics部門単独の地域別売上・受注動向、AMR単体売上、RobotStudio/ソフトウェア関連のARR。
- ヴェステロース工場の現在の従業員数(公開情報では体系的に確認できず)。
- GoFa、YuMi、IRB各モデルの標準価格、保守費、SI込みの実導入費用、RaaS/リース条件。
- RobotStudio HyperRealityの正式商用仕様、Foxconn以外の試験顧客、データ管理・サイバーセキュリティ体制。
- NEURA Roboticsのシリーズ C(EIB参加分)の具体的な出資額内訳、他の出資者との議決権比率。
- FANUC、Yaskawa、KUKA、Universal Robots、中国勢との2025〜2026年シェア比較。無料公開情報では現在値を確定できなかった。